宮崎駿が込めた『ハウルの動く城』のメッセージとは

ハウルの動く城1

こんにちは。アニクロニクル 運営者の朝日 とうまです。

ハウルの動く城』を観た後、なんだか心がざわついて、「あのシーンはどういう意味だったんだろう?」と検索しているのではないでしょうか。

描かれる戦争の意味が曖昧だったり、ソフィーはなぜ若返るのか、そして彼女の見た目が変わる理由が気になったり。ハウルが意外と「ダメ男」に見える瞬間や、終盤の展開がわかりにくいと感じることもあるかもしれません。

中には、そもそも深いメッセージはないのでは?と感じるような、矛盾した点に気づいた方もいるかも。それ、すごくよくわかります。この作品は、観るたびに新しい感情が引き出される、とても不思議な力を持っていますよね。

この記事では、『ハウルの動く城』に込められた宮崎駿監督のメッセージについて、私の視点で深く読み解いていきます。単なる解説ではなく、皆さんが感じた「もやもや」を整理し、もう一度あの世界を“再体験”するためのお手伝いができればと思います。

この記事のポイント

  • 宮崎監督が描いた「戦争」の本当の意味
  • ソフィーの「老い」と若返りに隠された心理
  • ハウルとソフィーの「愛」が救うもの
  • 作品の矛盾点と「メッセージはない」という視点
目次

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ハウルの動く城と宮崎駿のメッセージ

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『ハウルの動く城』を観た後、なんだか心がざわついて、「あのシーンはどういう意味だったんだろう?」と検索しているのではないでしょうか。

描かれる戦争の意味が曖昧だったり、ソフィーはなぜ若返るのか、そして彼女の見た目が変わる理由が気になったり。ハウルが意外と「ダメ男」に見える瞬間や、終盤の展開がわかりにくいと感じることもあるかもしれません。

中には、そもそも深いメッセージはないのでは?と感じるような、矛盾した点に気づいた方もいるかも。それ、すごくよくわかります。この作品は、観るたびに新しい感情が引き出される、とても不思議な力を持っていますよね。

この記事では、『ハウルの動く城』に込められた宮崎駿監督のメッセージについて、私の視点で深く読み解いていきます。単なる解説ではなく、皆さんが感じた「もやもや」を整理し、もう一度あの世界を“再体験”するためのお手伝いができればと思います。

描かれる戦争の意味とは

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『ハウルの動く城』を観ていて、多くの人が「あれ?」と立ち止まるのが、劇中で描かれる「戦争」の在り方だと思います。すごく不思議ですよね。

どこの国とどこの国が、一体何を原因として戦っているのか。その具体的な説明は、映画の最後まで一切なされません。私たちは物語を見るとき、無意識に「どちらが正義で、どちらが悪か」を探そうとしますが、この作品はその「当たり前」の足場を意図的に崩してきます。

大義名分も、倒すべき明確な「敵」も描かれない。ただ、空襲のサイレンが鳴り、街が焼かれ、兵士たちが無個性な塊として行進していく。まるで、戦争が「日常の風景」の一部であるかのように、淡々と、そして理不尽に存在しているんです。

これこそが、宮崎監督の仕掛けた演出の核心だと私は考えています。

もし理由や大義名分を描いてしまったら、その瞬間に「どちらかの正義」が生まれてしまう。「この国を守るため」「悪を討つため」という理屈が立てば、観客はどちらかに感情移入し、戦争という行為を(物語上であれ)肯定しかねません。

監督が避けたかったのは、まさにそこではないでしょうか。

この作品で描かれるのは、戦争の「原因」ではなく、戦争がもたらす「結果」だけです。意味もわからず火の海になる街。怯える人々。そして、どちらの側にも加担せず、ただ戦火そのものにウンザリし、身を削りながら戦うハウルの姿。

つまり、「理由が何であれ、戦争という行為そのものが愚かで、無意味で、許されるべきではない」というメッセージ。それを、理屈ではなく「映像」と「感覚」で私たちに叩きつける。この「説明しない」という手法こそが、「それでもあなたは、理由があれば戦争を肯定できますか?」と、観客自身の心に鋭く問いかける、最も強力な表現になっているのだと私は思います。

徹底した「戦争全否定」の背景

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この「戦争全否定」というメッセージは、作品が公開された当時の時代背景と深く関わっている、と私は見ています。

当時は9.11以降、「正義の戦争」や「テロとの戦い」という言葉が世界を覆っていました。そんな中で「理由を問わず、戦争は全部ダメだ」と断言するのは、相当にラディカルな姿勢です。

この強さの源泉は、宮崎監督自身の原体験にあると言われています。

監督の「二種類の屈辱」

宮崎監督は、幼少期に「敗戦国」としての屈辱を味わうと同時に、成長してからは自国が「侵略国」であったことへの罪悪感(屈辱)も抱えていたそうです。

この「被害者」と「加害者」という矛盾した視点を併せ持つからこそ、「国家」や「大義名分」といったものを根本から信用せず、「戦争はすべて悪である」という強烈な思想に行き着いたのではないでしょうか。

ソフィーはなぜ若返るのか

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この作品で一番ミステリアスなのが、ソフィーの年齢の「揺らぎ」ですよね。荒地の魔女に呪いをかけられて90歳の老婆になってしまう。ここまでは、まあファンタジーの「呪い」として分かります。

でも、彼女は90歳のままじゃありません。眠っている時にふと若返ったり、ハウルを庇おうと必死になった瞬間に若返ったり。かと思えば、また老婆に戻ったり。

あの呪いは、単に「若さを奪う」魔法ではなかったんだと私は思います。もしそうなら、解けるまでずっと老婆のはずですよね。

私は、あれは「ソフィーの内面を、そのまま外見に映し出す」鏡のような呪いだったと解釈しています。

呪われる前のソフィーを思い出してみてください。彼女は若くて美しいはずなのに、自分では「私なんて美しかったことなんかい一度もない」と強く思い込んでいます。地味な服を選び、「長女だから」という理由だけで、自分の人生や恋を諦めて帽子屋に籠もっている。その心は、生きる活力や自信を失った「老婆」そのものだったのではないでしょうか。

荒地の魔女の呪いは、ソフィーが元々抱えていた、その「どうせ私なんて」という自己否定の“心の老い”を、外見として強制的に顕在化させただけなんです。

では、なぜ若返るのか?

皮肉なことに、ソフィーは「老婆」という外見を手に入れたことで、初めて「若さ」や「美しさ」のコンプレックスから解放されたんです。「おばあちゃんだから」と怖いもの知らずになり、言いたいことを言い、掃除を始め、ハウルを救うために王宮にまで乗り込む。その時、彼女の内面は「諦観した少女」ではなく、「守りたいもののために必死に行動する“強い女性”」になっています。

心が決意と活力(=若さ)を取り戻した瞬間、あの「鏡」の呪いは、忠実にその内面を映し出す。だから、彼女は若返るんです。あれは呪いが「解けている」のではなく、呪いが「作動し続けている」結果なんですね。

ソフィーの見た目が変わる理由

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ソフィーの見た目がコロコロ変わるのは、彼女の「心理状態」と完全に連動しているからですね。これは脚本として非常に巧みです。

例えば、こんなシーンがありました。

ソフィーの言動・心理外見の変化分析
王宮で「ハウルを信じます」と堂々と宣言する若返る自信と他者への信頼が自己肯定感を高めた
ハウルと花園で「私きれいでもないし」と弱気になる老いるコンプレックスが顔を出し、自信を失った
眠っている時(無意識)若返る不安や劣等感から解放された本来の姿

心が前を向いたり、誰かを強く信じたりした時、彼女は若返る。逆に、「私なんて」と不安になると、途端に老いてしまう。見た目の年齢は、彼女の心のバロメーターそのものなんです。

「老い」を肯定する監督の意図

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ここで、宮崎監督の視点について、もう少し深く考えてみたいんです。この物語で最も重要なのは、「老いること=不幸」という単純な図式で描いていない点にあります。

むしろソフィーは、老婆の姿になったからこそ、それまで自分を縛り付けていたあらゆる「呪縛」から解放されました

考えてみてください。呪われる前の彼女は、「長女だから店を継がなきゃ」という役割規範、「私なんて美しくない」という外見のコンプレックス、「妹のように華やかになれない」という自己評価…そういった“見えない鎖”に雁字搦めでしたよね。

ところが、老婆になった瞬間、彼女はそれら全ての「評価の土俵」から降りることができたんです。

「もうおばあさんだから、失うものはない」
「おばあさんだから、怖いものなんてない」

王宮に乗り込む時も、ハウルのドロドロの城を勝手に掃除し始める時も、彼女は信じられないほど行動的です。あれこそが、若さや美しさ、世間体といった呪縛から解き放たれた人間の「無敵の強さ」ではないでしょうか。

宮崎監督はアニメーターに「(ソフィーを)かわいらしいおばあさんに描くな。容赦無く、年寄りにしてほしい」と注文したそうです。それは「老い」を美化するのではなく、「老い」という状態そのものが持つ「解放」の力を描きたかったからだと私は思います。

だから、この物語の呪いは、魔法やキスで都合よく解けたりしないんです。

「年齢や見た目は問題ではない。本当に重要なのは、自信や自己肯定感だ」というメッセージ。それを伝えるために、ソフィーは自ら「行動」し、誰かを「愛し」、そのプロセスを通じて「自信」を(自分の力で)取り戻していく。この「自力救済」のプロセスこそが、この物語の最大の優しさと強さだと、私は感じています。

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ハウルの動く城、宮崎駿のメッセージ深掘り

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さて、ここまでは物語の大きな縦軸である「戦争」と、ソフィーの「老い」に隠されたメッセージを読み解いてきました。宮崎監督の強い意志や、時代背景へのカウンターとしての側面が感じられましたよね。

でも、『ハウルの動く城』が私たちの心を掴んで離さない理由は、それだけじゃないはずです。

むしろ、もっとパーソナルな部分…例えば、ハウルが見せるあの「弱さ」や、ちょっと面倒くさい「ダメ男」っぷり。そして、そんな彼をソフィーがどう受け止め、二人の「愛」がどういう役割を果たしたのか。

さらには、「老いを肯定したはずなのに、最後は若返るの?」とか「荒地の魔女って結局何だったの?」といった、観終わった後に残る「もやもや」とした疑問や、物語の矛盾点。

ここからは、そうした登場人物たちの心理と、物語が抱える複雑な側面について、さらに深く踏み込んでいきたいと思います。

ハウルが「ダメ男」な理由

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さて、魔法使いハウル。彼の魅力は、あの美青年な容姿と圧倒的な魔法の力…だけじゃないんですよね。むしろ、彼の本質的な魅力は、その驚くほどの「ダメ男」っぷりにあると私は思っています。

この「ダメさ」は、宮崎監督が意図して描いた、彼の人間的な「弱さ」の象徴です。

例えば、序盤で見せる数々の奇行。女の子にフラれた(とマルクルが推測する)だけで、自分の髪の色が気に入らないと「美しくなければ生きていても意味がない」と絶望し、「闇の精霊」を呼び出すほどの情緒不安定さ。これは単なるナルシシズムを超えた、彼の「虚栄心」と「自己肯定感の低さ」が表裏一体であることを示しています。

また、あれほどの魔法使いなのに、身だしなみは完璧な一方で、部屋や風呂場は信じられないほどのゴミ屋敷。これは、彼の「外見(=他者に見せる仮面)」を保つことに全エネルギーを使い果たし、彼自身の「内面(=誰も見ないプライベート)」が荒廃しきっていることのメタファーです。彼は「美」に執着しているのではなく、「美という名の鎧」に隠れて震えているだけなんですね。

そして、彼の「ダメ男」ぶりを決定づけるのが、徹底した「逃避癖」です。

「回避型依存」としてのハウル

彼は王室からの召喚という、魔法使いとしての「責任」から逃げ回っています。それどころか、その面倒事をソフィー(彼から見れば、出会ったばかりの老婆)に押し付け、自分はサリマンのもとへ向かう彼女をこっそり後から見守るという、姑息さ(と言ってごめんなさい)まで見せる。

これは心理学でいう「回避型依存(回避性パーソナリティ)」の傾向に近いです。プライドは高いのに、傷つくことを極度に恐れている。本当は愛されたいのに、他者と深く関わって親密になるのが怖く、真剣な関係(師匠であるサリマンとの対峙や、戦争への関与)からひたすら「逃げる」ことを選んでいるんです。

彼は強大な魔力を持っていながら、その心は「これ以上傷つきたくない」と怯える、未熟な青年のまま止まっている。美しさと強さの裏に隠された、このどうしようもない弱さと臆病さ。それこそが彼の「人間らしさ」であり、彼がソフィーという「救い」を必要としていた、最大の理由なんだと私は思います。

ハウルとソフィーの愛の役割

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では、あの「ダメな」ハウルを、あの「逃げ続けた」ハウルを救ったものは何だったのか。それが、ソフィーの「愛」でした。ただし、それは簡単なロマンスではありません。二人の関係は、物語の核心を突く「心理的な救済」そのものだったと私は思います。

ソフィーがハウルに向けた「愛」が決定的に違ったのは、彼女が彼の「強さ」や「美しさ」に惹かれたのではなかった、という点です。

彼女は、ハウルの城に転がり込み、彼のどうしようもない「弱さ」や「臆病さ」を、真正面から目撃します。髪の色で絶望する情緒不安定さ。ゴミだらけの部屋。責任からの逃避。普通なら幻滅しますよね。でも、ソフィーは幻滅しなかった。それどころか、彼の「弱さ」や「臆病さ」を丸ごと受け入れた上で、「大丈夫」と信じ続けたんです。

ハウルは、「愛されたい」と願いながらも、他者と親密になることを恐れて(回避して)きました。そんな彼にとって、自分の最も情けない姿を見てもなお、そばに居続けるソフィーの存在は、初めての「無条件の受容」であり、「安心できる居場所」だったんです。

だから、ソフィーはハウルが「逃げることを終わらせる魔法」になれた。彼はもう、戦争や責任から「逃げる」必要がなくなった。なぜなら、「ソフィーを守る」という、逃げるわけにはいかない「戦う理由」ができたからです。

「相互成長型」の理想形

しかし、これは一方的な救済劇ではありません。ハウルもまた、ソフィーを救っているんです。

ソフィーの呪いは「自己肯定感の低さ」でした。そんな彼女に対し、ハウルは(老婆の姿であっても)一人の女性として尊重し、頼りにし、そして「君はきれいだよ」と言葉をかけます。美の化身のようなハウルに「ありのまま」を肯定されたこと。それこそが、ソフィーが自分自身を縛っていた「私なんて」という呪いから解放される、唯一のきっかけだったんです。

ハウル(感情的で不安定)とソフィー(冷静で安定的)は、まさに自分にないものを補い合う「補完関係」です。

お互いに足りないものを与え合い、高め合う「相互成長型の恋愛」。二人が「ありのまま」を受け入れ合ったこと。それこそが、悪魔との契約や、老いの呪いといった、二人の過去の呪縛すべてから解放される、唯一の方法であり、この物語が描いた「愛」の役割だったんだと、私は強く思います。

荒地の魔女が象徴するもの

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ソフィーの「老い」の意味を考える上で、絶対に欠かせないのが、彼女と対極の「老い」を象徴する、荒地の魔女の存在です。

ソフィーは「内面の老い(自己否定)」が外見に出た結果、老婆になりました。対して荒地の魔女は、「若さへの執着」そのものを魔力でドーピングし、無理やり若さを保っていた、いわばソフィーとは真逆の存在です。

その彼女がどうなったか。王宮でサリマンに魔力を奪われた瞬間、彼女が必死に維持していた「若さ」という虚栄のメッキは剥がれ落ち、ソフィー以上に衰弱した、介護が必要そうな老婆の姿になってしまいました。

これほど強烈な皮肉はありませんよね。「見た目だけ若くしても、その中身が伴っていなければ何の意味もない」ということを、これでもかと見せつけられます。

さらに恐ろしいのは、彼女の内面です。

魔力を失い、ただの老婆になっても、彼女の「内面」は一切変わっていません。ハウルの心臓(=若さや力の象徴)への執着は消えず、隙あらばそれを奪おうとします。部屋で堂々と葉巻をふかす横暴さもそのまま。

これは、「老い」が人を自動的に賢くしたり、丸くしたりするわけではない、という宮崎監督の容赦ない現実的な視線を感じます。ソフィーが「老い」によって呪縛から“解放”されたのとは真逆で、魔女は「老い」てもなお「執着」に“縛られ続けている”んです。

では、なぜそんな彼女が、最後はハウルの心臓をソフィーに返したのか。

それは、ソフィーが彼女を「敵」としてではなく、「家族」として扱ったからだと私は思います。城が崩壊する火事の中、ソフィーは(自分を呪った張本人である)魔女を見捨てず、命がけで救い出します。そして、心臓を抱きしめる彼女を、罰するのではなく、ただ「抱きしめた(=受容した)」

ソフィーの「心からの愛情」は、ハウルだけでなく、敵であった荒地の魔女の強固な「執着」さえも溶かした。この作品は、「愛」が持つ“救済の力”が、いかに強大であるかも同時に描いているのだと、私は強く感じます。

メッセージはない?矛盾点の考察

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さて、ここまで「反戦」や「老いの肯定」といった、宮崎監督の深いメッセージについて考察してきました。ですが、ここで一度立ち止まり、正直に「もやもや」と向き合わなければなりません。

それは、「そもそも、この映画に深いメッセージなんてないのでは?」という、非常に手厳しい、しかし無視できない視点です。

「単にかっこいいハウルの映像集だ」「物語が破綻している」といった批評、皆さんも一度は目にしたことがあるかもしれません。正直、終盤の展開の難解さを考えると、「ついていけない」と感じる観客がいたとしても不思議ではありません。物語のロジック(論理性)が追いにくくなると、人は「そこに意味はない」と結論づけたくなります。

ですが、そうした批評の中でも、作品の根幹を揺るがす、最も鋭い「矛盾」が一つ存在します。私も、この記事を書く上で一番頭を悩ませたのがこの点です。

それは、「愛に年齢は関係ない」というテーマだったはずなのに、なぜソフィーは最後に若い姿に戻るのか?という、最大の疑問です。

最大の矛盾点:若返る結末

考えてみてください。もし宮崎監督が本気で「老いの肯定」や「見た目ではない、ありのままの自己肯定」を描き切るつもりだったなら、最も美しい結末は「老婆の姿のままのソフィーを、ハウルが心から愛し、結ばれる」というものではなかったでしょうか。

それこそが、「年齢や見た目は関係ない」というテーマの、完璧な着地点だったはずです。

しかし、物語はそうはならなかった。ソフィーは(銀髪ではあるものの)若い肉体を取り戻します。そして、私たちはそれを見て「ああ、よかった」と安堵してしまう。この「安堵」こそが、問題なんです。

「結局、若くて美しい方がいいじゃないか」「ハッピーエンドには若さが必要なのか」——。

この結末は、それまで積み上げてきたはずの「老いの肯定」というテーマと真っ向から矛盾し、「結局は年齢や容姿が大事だ」という、真逆のメッセージとして受け取れてしまう危険性をはらんでいます。

この一点をもって、「この映画はテーマを描ききれていない」と結論づける批評家の意見は、非常に重い。これは単なる揚げ足取りではなく、作品の核心に触れる、私たち観客が必ず向き合わなければならない「矛盾」なのだと、私は思います。

終盤の展開がわかりにくい訳

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わかります。あの終盤、ソフィーが不思議な扉を通って過去に飛んだり、カルシファーから心臓が戻ったりする一連の流れは、正直「わかりにくい」ですよね。「え、今何が起こったの?」と戸惑った方も多いと思います。

私も、あのシーンは物語の「論理性(ロジック)」を意図的に手放していると感じています。宮崎監督は、あのクライマックスで「理屈で理解させること」よりも、登場人物たちの「感情を爆発させ、解放すること」を最優先したのではないでしょうか。

特に混乱するのが、ソフィーがハウルの子供時代に飛ぶシーンです。彼女はそこで、ハウルがカルシファーと契約する瞬間を目撃し、「未来で待ってて!」と叫びます。これは、ハウルの「探してたよ」という最初のセリフに繋がる、決定的な瞬間です。

「感情」で繋がる時間のループ

時系列(ロジック)で考えると、「未来のソフィーが過去に干渉したから、ハウルはソフィーを待っていた」という、時間のパラドックスが起きています。でも、監督が描きたかったのは、そのSF的な仕掛けではなく、「二人の魂は、時を超えて既に出会っていた」という、運命的な“感情の結びつき”そのものだったんだと思います。

理屈を超えたところで、「ハウルがなぜソフィーを待っていたのか」という最大の“謎”が、この瞬間に“愛”として回収されるんです。

そして、ハウルが心臓を取り戻すプロセスも同じです。なぜカルシファーは死なずに済み、ハウルは生き返れたのか? その魔法の「ルール」は説明されません。そうではなく、ソフィーがハウルの「失った心(契約の瞬間)」を理解し、ハウルがソフィーの「愛」によって「心の重荷(=悪魔との契約)」から解放される。この二人の心理的な“救済”のプロセスを、ファンタジーの力を使って、一気に映像で見せたかったのではないでしょうか。

理屈で「どうやって?」を考えるのではなく、ソフィーやハウルの「心」にダイブして、「よかったね」と一緒に泣き、心を“解放”させる。あの終盤は、観客の理性にではなく、感情に直接訴えかけるために設計された、非常に脚本的な(あるいは詩的な)構成なのだと、私は解釈しています。

総括:ハウルの動く城、宮崎駿のメッセージ

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『ハウルの動く城』に込められた宮崎駿監督のメッセージは、決して一つではありません。

「戦争は全部ダメだ」というラディカルな反戦。
「年齢や見た目コンプレックスは乗り越えられる」という自己肯定。
「弱さを受け入れ合う」という愛の形。

そして、それらと「矛盾」するように見える結末。これらすべてが詰め込まれています。

この作品は、私たちに簡単な「答え」を与えてはくれません。理不尽な戦争、老いやコンプレックス、心の弱さ。そういった困難や矛盾をすべて見せた上で、それでも「愛」と「自信」によって「生きろ」と、私たちの心に強く問いかけてくる。

だからこそ、私たちは何度もこの作品に惹きつけられ、観るたびに自分の感情を“再体験”させられるのかもしれませんね。

ライターコラム

『ハウルの動く城』って、本当に「厄介」な作品ですよね。美しい映像やロマンスの裏に、戦争とか、老いとか、自己否定とか、あまりにも重くて痛いテーマがゴロゴロ転がっていて。

記事を書きながら、何度も手が止まりました。 特に、ソフィーが「私なんて美しくない」って自分を呪縛するあの感じ。ハウルが「もう逃げたい」って弱音を吐くあの感じ。

あれ、他人事じゃないんですよ。

私たちだって、日常で「どうせ自分なんて」って思い込む“呪い”を自分にかけてしまうし、大事なことから目をそらして「ダメ男」みたいに逃げたくなる瞬間がある。

だから、彼らが傷つきながらも「ありのまま」の相手を受け入れて、やっと居場所を見つける姿は、もう……。

考察しながら、まるで自分の中にある「弱さ」や「コンプレックス」を全部見透かされているような気がして、ちょっと苦しくなりました。

でも、書き終えた今、その苦しさごと「それでいいんだよ」って、ソフィーやハウルに許されたような……そんな温かい“解放感”があるんです。

「生きろ」って、あんなにも不器用で、痛々しくて、だけど優しいエールをくれる作品。だから私たちは、今もこの物語に救いを求めてしまうんでしょうね。

いやぁ、本当にすごい作品と向き合ったな、と。 皆さんも、この記事を読んで、何か少しでも心が軽くなる「解放」を感じてくれていたら、ライターとしてこれ以上嬉しいことはありません。

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