こんにちは。アニクロニクル 運営者の朝日 とうまです。
『呪術廻戦』を読んだり観たりしていると、「あれ、このシーン、どこかで…?」と感じること、ありませんか。特に『ハンターハンター』を熱心に読んできた人ほど、その既視感は強いかもしれませんね。
呪術廻戦とハンターハンターのオマージュ関係については、ネット上でも本当に活発に議論されています。「縛り」と「制約と誓約」のシステムがあまりに似てることや、五条悟の解説シーンの構図。東堂葵の能力や簡易領域の元ネタがノブナガではないかという考察、さらには虎杖とゴンの印象的な腕のシーンの類似まで、具体的な指摘はキリがありません。
中には「パクリすぎでは?」といった厳しい批判の声もあり、一方で作者が公言している他作品(エヴァンゲリオンやBLEACH、Fateなど)からの影響も複雑に絡み合っています。乙骨憂太のキャラクター造形や、領域展開というシステムの源流など、論点は多岐にわたります。
この記事では、そうした「オマージュか、パクリか」という論争になりがちな情報を一度フラットに整理して、両作品の具体的な類似点や、作者が公言する影響源について、私なりに分析・考察していきたいなと思います。
この記事のポイント
- 両作品の具体的な類似点(システムやシーン)
- 「オマージュ」と「パクリ」の議論の背景
- 作者・芥見下々氏が公言する影響源
- ハンターハンター以外の作品からの影響
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呪術廻戦 ハンターハンター オマージュ議論の背景

『呪術廻戦』を読んでいて、ふと既視感(デジャヴュ)に襲われる瞬間、ありませんか。「あれ、この感覚、知ってる」と。
特に『ハンターハンター』を深く読み込んできた人ほど、その感覚——例えば「呪力」と「念」、「縛り」と「制約と誓約」といったシステムの根幹に触れた時の“引っかかり”は、強くなるはずです。
ネットで「呪術廻戦 ハンターハンター オマージュ」と検索すると、そこには「パクリすぎだ」という厳しい非難と、「いや、これはリスペクト(オマージュ)だ」という擁護の声、その両方が溢れています。
これって、すごくデリケートな問題ですよね。なぜなら、どちらの作品のファンも、自分の「大好きだ」という大切な気持ちを踏みにじられたくないから。
では、そもそもなぜこれほどまでに両作品の関係性が議論されるのか。感情的になりがちなこのテーマの「背景」と、議論の核心にある最も本質的な類似点から、まずは冷静に整理していきましょう。

パクリすぎという批判の論点

まず前提として押さえておきたいのは、この「呪術廻戦 ハンターハンター オマージュ」という話題が、単なる「あ、ここ似てるね」といった微笑ましい感想の共有だけに留まらない、ということです。これは時として、非常にシビアで、感情的な議論を含むテーマなんですよね。
ネット、特に海外のファンコミュニティ(例えばRedditなど)を覗いてみると、その議論の熱量は想像以上かもしれません。「パクリすぎ(plagiarism)」という、単なる模倣を超えた「盗用」を意味する、かなり手厳しい言葉が使われることも少なくありません。
データベースの情報によれば、「もし自分が冨樫先生(『ハンターハンター』の作者)だったら、芥見先生(『呪術廻戦』の作者)を詐欺師だと思うだろう」といった、非常に強い非難の声も実際に存在するようです。
なぜ、そこまで強い言葉が飛び交うのか。それは、類似が指摘される箇所が、単なるキャラクターのポーズやセリフといった末端の部分だけでなく、「念能力」と「呪術」という、作品の根幹を成すパワーシステムの部分にまで及んでいる(と受け取られている)からですね。ここが、この議論における最大の火種であり、最もデリケートな論点になっているんだと思います。
もちろん、これらは一部の過激な意見であると私は信じたいです。ですが、こうした声が生まれる背景には、両作品のファンが、それぞれの作品(『ハンターハンター』という偉大な先行作品と、『呪術廻戦』という現代のメガヒット作)に、本当に強い思い入れと誇りを持っていることの裏返しでもあります。
議論が感情的になりやすい構造
この問題は、お互いの「作品愛」が強すぎるがゆえに対立しやすい構造を持っています。
- 先行作品(HxH)のファン心理:
「自分が愛した作品の“発明”や“哲学”が、軽々しく流用されているように見える」と感じる悔しさや、オリジナルへのリスペクトを問う気持ち。 - 後発作品(JJK)のファン心理:
「自分が今まさに愛している作品が、“パクリ”という一言だけで不当に貶められ、その独自性や面白さが全否定されている」と感じる反発心。
このように、お互いの大切なものが脅かされていると感じるからこそ、客観的な「オマージュ」の範囲を超えているか否かという議論が、感情的な水掛け論になりやすい…という側面が確かにあるかなと思います。この記事では、そうした感情論からいったん一歩引いて、まずは客観的な情報や具体的な類似点を整理していきたいですね。
オマージュかどうかの判断基準

では、こうした議論をもう少し冷静に整理するために、一般的に(例えば著作権の議論などで)使われる判断基準を少しだけ紹介しますね。もちろん、私は法律の専門家ではないので、あくまで「こういう見方がある」という参考程度ですが。
ポイントになるのは、主に以下の2点みたいです。
1. 依拠性(いきょせい)
制作者(芥見先生)が、先行作品(ハンターハンター)を過去に読んだり見たりして「知っていた」かどうか。
2. 類似性(るいじせい)
その上で、両作品が具体的に「どれくらい似ている」のか。
つまり、「知らずに偶然似てしまった」のか、それとも「知っていて、意識的に描いた」のか。そして、その似方が単なる模倣なのか、リスペクトの範囲内(オマージュ)なのか。この2つの軸で見ていくと、感情論ではない整理ができそうです。
作者が公言する影響源(依拠性)

さて、先ほど「オマージュかどうかの判断基準」で触れた2つの軸のうち、まず「1. 依拠性(いきょせい)」についてです。これは、「そもそも芥見先生が『ハンターハンター』を知っていて、その上で描いたのか?」という、著作権の議論でも使われる重要な論点ですね。
これに関しては、もう議論の余地がありません。なぜなら、作者の芥見下々先生ご本人が、公式ファンブックや様々なインタビューで、影響を受けた作品を包み隠さず公言されているからです。
特に核として挙げられているのが、「中学生で『ハンターハンター』と『エヴァンゲリオン』、小学生で『BLEACH』」。これらの作品からは「特に影響を受けた」と明確に語られています。この「公言」という事実こそが、オマージュ議論において決定的に重要だと私は思います。
さらに、芥見先生が挙げる影響源はそれだけに留まりません。データベースによれば、『Fate/Zero』や、剣戟の描写では『バガボンド』(特に吉岡清十郎戦が好き、とも)など、本当に多岐にわたります。
僕が思うに、『呪術廻戦』の独自性って、ここにあるんです。つまり、単一の作品からではなく、複数の異なる傑作のDNAを「カクテル」のように複合させている点です。この視点は、作品の「オリジナリティ」を考える上で欠かせません。
芥見先生が公言する主な影響源(一例)
- HUNTER×HUNTER(中学生)
- 新世紀エヴァンゲリオン(中学生)
- BLEACH(小学生)
- Fate/Zero
- バガボンド
この事実は、「知らずに偶然似てしまった」という可能性を完全に否定します。そうではなく、芥見先生がこれら偉大な先行作品を深く読み込み、強く意識し、リスペクトした上で『呪術廻戦』が描かれている。これが、この「パクリかオマージュか」という議論を見ていく上での、絶対に揺るがない大前提になりますね。
「依拠性」は証明されている。では次に、もう一つの軸である「類似性(具体的にどこが似ているか)」を、次の見出しから詳しく見ていきましょう。
核心的類似:「縛り」と「制約と誓約」

次に「2. 類似性(どれくらい似ているか)」です。数ある類似点の中でも、最も本質的で、議論の核心にあるのが、このパワーシステム(能力のルール)かなと思います。
『ハンターハンター』のバトルが革新的だったのは、やはり「念能力」における「制約と誓約」の概念にあったと私は思います。「自分に不利なルール(制約)を課し、それを守る(誓約)ことで、その対価として能力の威力を飛躍的に高める」という、あの論理的なパワーアップシステムですね。
そして、『呪術廻戦』の「縛り」。これもまた、「自分に縛りを加えることによって効力を上げる」という中核的な概念を共有しています。
この「力を得るために対価を払う」というシステム哲学は、『ハンターハンター』の影響を色濃く継承していると言っていいんじゃないでしょうか。
五条悟の解説シーン構図の類似

「縛り」と「制約と誓約」といった根幹システムだけでなく、その複雑なシステムを読者に「どう見せるか(How to show)」という具体的な演出・構図にも、よく指摘される顕著な類似点があります。
それが、物語の序盤。五条悟が主人公の虎杖悠仁に「呪力」の仕組みを解説する一連のシーンです。この時のパネルレイアウト(コマ割り)や説明のロジック展開が、『ハンターハンター』で師匠的立場のウイングさんが、ゴンとキルアに「念」の仕組みを教える、あの有名なシーンと「そっくりだ」と強く指摘されています。
どちらも、読者が初めてその作品世界の根幹ルールに触れる、極めて重要な「導入解説パート」ですよね。
具体的に指摘される類似点
- 師匠と生徒の立ち位置:
師匠格のキャラクター(五条/ウイング)が、生徒(虎杖/ゴン・キルア)に力の存在を「可視化」させて教えるというシチュエーション。 - エネルギーの視覚表現:
まだ力(呪力/オーラ)を制御できない主人公の体から、エネルギーが「ダダ洩れ」になっている様を、モワモワとしたエフェクトで視覚的に描く手法。 - 「体感」させる説明ロジック:
単なる座学ではなく、コップの水(念)や、家電(呪力)といった身近なものに例えつつ、実際に体で「出力」や「制御」を体感させるという、その「教育メソッド」そのものが酷似しています。
この類似性は、単なる偶然とは考えにくいですよね。僕は、これは芥見先生が意図的に参照した結果だと感じています。
なぜなら、この「複雑なパワーシステムを、読者を置いてけぼりにせず、かつ直感的に理解させる」という導入解説は、バトル漫画において最も難しい技術の一つだからです。『ハンターハンター』のあの解説シーンは、その「読者を入門させるための“型”」として、ほぼ完璧な「発明」だったと私は思います。
『呪術廻戦』がやろうとしたのも、同じく複雑な「呪力」という概念の提示です。その際、最も優れたお手本の一つである『ハンターハンター』の「型」=読者への提示フォーマットを、最大級のリスペクトを込めて参照した。その結果が、この「そっくり」と言われるほどの構図の類似につながったのではないでしょうか。
これは「楽をした」という批判ではなく、読者の分かりやすさを最優先するために、偉大な先達の「発明」を敬意をもって継承した結果、と見るのが自然かなと感じますね。
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呪術廻戦とハンターハンター以外のオマージュ分析

『呪術廻戦』の議論が「ハンターハンター」との比較だけで終わってしまうのは、本当にもったいない。
もし『呪術廻戦』を一杯の「カクテル」だと例えるなら、『ハンターハンター』は確かにその“ベース(基酒)”の一つかもしれません。ですが、そのカクテルの複雑な味わい、読者の心を酔わせる香りは、ベースだけでは決して作れないんです。
『呪術廻戦』の真のオリジナリティは、単一の模倣にあるのではなく、作者・芥見下々氏が公言するように、多様な傑作のDNAを混ぜ合わせた、その絶妙な「編集能力」にこそあります。
『ハンターハンター』が「論理」なら、『Fate』の「概念」や、『エヴァンゲリオン』の「心理描写」は?
ここからは、その「カクテル」の材料となった、ハンターハンター“以外”の偉大な作品たちとの関係性を分析していきます。
東堂葵とゴレイヌの能力比較

まず、個別の能力でよく比較されるのが、東堂葵の術式「不義遊戯(ブギウギ)」です。ご存知、手を叩くことで対象の位置を入れ替える能力ですね。
これが、『ハンターハンター』のG.I.編に登場したゴレイヌの念能力(2体のゴリラと自身・他者の位置を交換する)と、「ほぼ一緒だ」と言われることが多いです。
ただ、私が「上手いな」と感じるのは、その“応用”の部分。『呪術廻戦』では、東堂があえて「手を叩くフリ」だけで術式を発動させず、相手の思考を揺さぶるフェイントとして使う場面が描かれます。
元ネタとされるルールの、さらに裏をかく。この「ひねり」こそが、単なる模倣を超えた『呪術廻戦』のオリジナリティかなと思います。
簡易領域はノブナガと似てる?

三輪霞が使う「簡易領域(シン・陰流)」もよく話題に上がります。半径約2.21メートルの円(領域)内に入ったものを自動迎撃する居合術ですね。
この「自身の刀の半径内」と「居合」という組み合わせが、『ハンターハンター』の幻影旅団のノブナガが使う「円(自身の刀の半径を探知する能力)」と「居合術」のコンセプトに似てる、という指摘です。
確かにコンセプトは近いですが、両者はその「機能」が決定的に異なります。
- ノブナガの「円」:あくまで敵を探知する「センサー」としての機能。
- 三輪の「簡易領域」:侵入者を「自動迎撃」する機能。
特に「簡易領域」は、「領域展開」への対抗策という『呪術廻戦』固有のルールの中で非常に重要な意味を持つ技になっています。元ネタとされるコンセプトを、作品独自のルール(領域対策)へと落とし込んでいる点に、設定の組み換えの上手さを感じますね。
虎杖とゴンの腕欠損シーン

システムやロジックだけでなく、読者の感情(あるいは痛み)を直接揺さぶる、強烈な「ビジュアル(画)」としてのオマージュ。その代表格としてよく挙げられるのが、この主人公の「腕の欠損(あるいはそれに近い負傷)」シーンですね。
『呪術廻戦』では、渋谷事変などで主人公の虎杖悠仁が左腕を失いながらも、なお戦闘を続行するという、読者の胸を抉(えぐ)るようなシーンが描かれました。これが、『ハンターハンター』のG.I.(グリード・アイランド)編、対レイザーとのドッジボール戦で、ゴンが左腕に深刻な傷を負ってもなお戦意を失わなかった、あの有名なシーンの構図と酷似している、と指摘されています。
確かに、どちらのシーンも非常に印象的です。
シーンの共通点
それは、主人公が「常人なら即座に戦意喪失、あるいはリタイアする」レベルの深刻な負傷(特に左腕)を負ったにもかかわらず、その表情からは一切の「諦め」や「恐怖」が読み取れないこと。
痛みで歪むどころか、むしろその逆。敵(あるいは目的)から一切視線を外さず、「まだ終わっていない」という異常なまでの執念と覚悟を、その“画”一枚で読者に叩きつける。この「演出」のコアが、両作品で共通していると感じます。
ただ、似てはいますが、その「文脈」と「痛みの質」は少し異なると僕は思います。
ゴンの場合は、まだ「G.I.」というゲームの枠内であり、仲間との共闘(キルアが背中を支える)の中で見せた、ある種「光」の中の異常性でした。ですが、虎杖が置かれた渋谷事変は、そんなゲームのルールなど存在しない、仲間が次々と失われていく、より絶望的で「死」そのものと隣り合わせの状況です。
芥見先生の記憶に、『ハンターハンター』のあの「主人公の覚悟を示す強烈な画」が深く刻まれていたのは間違いないと思います。そして、その偉大なシーンが読者に与えた衝撃(=ゴンの覚悟の強さ)という共通言語を、いわば“フリ”として使いつつ、それを『呪術廻戦』という作品の、よりダークで生々しい世界観の中で「再構築」した。
単なる「強烈な画」の参照ではなく、『ハンターハンター』読者が知る「ゴンのあの覚悟」を踏まえることで、虎杖悠仁が背負う覚悟の重さ、そして彼が置かれた状況の過酷さを、何倍にも増幅させる——。これは、計算され尽くした「視覚的オマージュ」であり、演出の手法なのではないか、と私は感じますね。
領域展開とFate固有結界

さて、『呪術廻戦』を象徴するバトルシステムといえば、やはり「領域展開」です。ですが、この派手なシステムは、『ハンターハンター』には明確な対応物がありません。
では、この源流はどこにあるのか。ここで有力視されているのが、『Fate』シリーズの「固有結界」です。
「自分の心象風景を具現化し、それを現実空間に上書きして相手を引きずり込む」という概念そのものが、『Fate/stay night』の「Unlimited Blade Works(無限の剣製)」などに「めっちゃ似ている」という考察ですね。伏黒恵の「嵌合暗翳庭」のビジュアル(無数の剣のようなものが突き立つ空間)も、それを連想させます。
芥見先生ご自身が『Fate/Zero』からの影響を公言していることを踏まえると、これは『ハンターハンター』の緻密なロジックとは別の軸として、『Fate』の派手な概念バトルを取り入れた、意図的なオマージュと考えるのが自然かなと思います。
乙骨憂太とエヴァンゲリオン

『ハンターハンター』と並んで、作者が「特に影響を受けた」と公言するのが『新世紀エヴァンゲリオン』です。
その影響が最も分かりやすい形で結晶しているのが、『劇場版 呪術廻戦 0』の主人公・乙骨憂太ですね。これはもう、「多層的オマージュ」の完璧な実例だと私は思います。
- 性格(内面的類似):序盤の臆病で内向的な性格が、『エヴァ』の主人公・碇シンジと「ほぼシンジ君」と評されるほど似ている点。
- セリフ(言語的オマージュ):乙骨の「死んじゃダメだ」という印象的なセリフが、シンジの「逃げちゃダメだ」を強く連想させる点。
- 声優(メタ的オマージュ):そして極め付けに、劇場版アニメでその乙骨憂太を演じた声優が、碇シンジと全く同じ、緒方恵美さんである点。
これ、すごくないですか? 性格、セリフ、そして「中の人」まで。ここまであからさまにリスペクトを重ねる行為は、「パクリ」として隠蔽しようという意図とは正反対ですよね。作品(エヴァ)と演者(緒方さん)への最大限の敬意の表明であり、分かる人には分かる「共通言語」として機能しているんだと思います。
BLEACHからのオマージュ要素

芥見先生が小学生時代に影響を受けたと公言する『BLEACH』。この「カクテル」の中でも、僕は『BLEACH』のDNAが『呪術廻戦』の「感覚的なカッコよさ」…つまり“センス”の部分を形作っている、欠かせない要素だと感じています。
『ハンターハンター』が緻密な「ロジック(論理)」、『Fate』が「概念」のバトルだとすれば、『BLEACH』が持ち込んだのは、ずばり「スタイル(型)」と「センス(感覚)」です。
単に「絵が似てる」という次元の話ではありません。もっと深い、作品の“空気感”の部分ですね。
“オサレ”と評されるセリフ回し
まず、セリフ(言葉のセンス)です。『BLEACH』といえば、キャラクターの哲学が凝縮された、詩的で“オサレ”なモノローグやキャッチフレーズが象徴的でした。
『呪術廻戦』も、この「言葉の強さ」を強く意識していると感じます。例えば、七海建人の「労働はクソです」。これは単なる愚痴ではなく、彼の生き方そのものを定義する言葉になっていますよね。五条悟の「大丈夫。僕、最強だから」というセリフも、その絶対的な自信とキャラクター性を、たった一言で読者に“刷り込む”強さがあります。
短く、断定的で、心に突き刺さる。この“セリフでキャラを立たせる”感覚は、『BLEACH』から受け継いだDNAが色濃く出ている部分かなと思います。
構図と「見せ方」の美学
ビジュアル、特に「構図」にも強い影響が見られます。『BLEACH』は、白と黒のコントラストを大胆に使い、キャラクターがただ“立つ”だけで雑誌の表紙のように見せる「画の強さ」が圧倒的でした。
『呪術廻戦』の、影や呪力を表現する際の大胆な「ベタ(黒塗り)」の使い方や、キャラクターの登場シーン。あるいは、単行本の表紙や巻頭カラーで見せる、キャラクターたちの“ファッションモデル”のような佇まい。こうしたビジュアルセンスの根底には、あの『BLEACH』が切り開いた「少年漫画におけるスタイリッシュさ」の文法が流れているように感じます。
「制服の着こなし」という個性
もう一つ、これは僕の深読みかもしれませんが、キャラクターデザイン、特に「制服」にも共通点を感じます。
『BLEACH』は死覇装(しはくしょう)という黒い和装をベースに、羽織や小物、着こなしで隊長格の個性を出していました。
『呪術廻戦』もまた、高専の「制服(黒い詰襟やセーラー)」がベースでありながら、その着こなしがキャラクターの個性そのものになっています。五条悟の特注品、狗巻棘のハイネック、禪院真希のジャージ素材、釘崎野薔薇のカスタム……。「統一された意匠」の中で「個性を爆発させる」という美学は、両作品に共通する魅力だと思います。
緻密なロジック(ハンターハンター)や、派手な概念バトル(Fate)という骨格に、『BLEACH』的なクールなセンスという“肉付け”がされている。この絶妙なバランス感覚こそが、『呪術廻戦』という作品の、あの独特な読後感を生み出している一因なんでしょうね。
呪術廻戦 ハンターハンター オマージュの総括

さて、ここまで「呪術廻戦 ハンターハンター オマージュ」というテーマで、様々な類似点や影響源を分析してきました。
結論として、これらの関係性は「パクリ(盗用)」ではなく、「創造的オマージュ」である、と私は考えます。
その理由は、大きく2つあります。
- 乙骨憂太の例のように、多くの類似点が元ネタを知っていれば即座に気づくほど「あからさま」であること。(=隠す意図がない)
- 東堂のフェイントのように、元ネタの概念をそのまま使うのではなく、必ず『呪術廻戦』独自の「ひねり」や「応用」を加えていること。
『呪術廻戦』の真のオリジナリティは、個々の要素(例えば「縛り」というシステム)にあるのではなく、これら多様な傑作(ハンターハンター、Fate、エヴァ、BLEACH…)のDNAをリスペクトを持って継承し、それを自らの作品の主題(「死」の扱いなど)に沿って見事に再構築した、その「編集能力」と「総合力」にあるんじゃないでしょうか。
偉大な作品から深く学び、それを自分の色で塗り替え、新しい世代のエンターテイメントとして昇華させる。それこそが、今の時代に求められる作家性の一つのかたちなのかもしれませんね。
ライターコラム
正直に言うと、今回の記事、書くのに一番神経を使いました。
だって、この「呪術廻戦 ハンターハンター オマージュ」っていうテーマって、単なる分析や情報整理じゃなくて、読者さん一人ひとりの“感情”そのものに触れる、すごくデリケートな場所だからです。
「パクリだ」って強く非難する人の気持ち。 それって、自分が心の底から愛した作品(『ハンターハンター』)が、軽んじられたり、踏み台にされたように感じたりする、純粋な「悔しさ」や「悲しさ」だと思うんです。
逆に「これはオマージュだ」って守ろうとする人の気持ち。 それは、今まさに自分が夢中になっている作品(『呪術廻戦』)を、胸を張って「好きだ」と言い続けたい、切実な「祈り」ですよね。
どっちも、根っこにあるのは作品への「愛」なんです。
だから、僕が記事で書いた「創造的オマージュ」とか「編集能力」っていうのは、その両方の“愛”のぶつかり合いに対して、僕なりに提示したかった“心の出口”のつもりです。
特に、乙骨くんとシンジくんが、声優さん(緒方恵美さん)まで同じだったっていう分析。 あれって、もはや「隠す」気がない、リスペクトの「告白」じゃないですか。
「僕も、あなたたちと同じで、あの作品たちが大好きなんです」
芥見先生は、僕らと同じ“オタク”であり、“共犯者”なんだと思うんです。 僕らが愛した作品のDNAを、確かに受け継いで、新しい物語(こたえ)を見せてくれようとしている。
その「継承」の瞬間に立ち会えることが、今この時代にアニメを見ていて、一番幸せで、胸が熱くなることなのかもしれない。
そんなことを、書きながらずっと考えていました。 あなたの目には、この関係性、どう映りましたか?
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