リヴァイアサンのアニメと原作の違いは?結末や評価を徹底解説

リヴァイアサン アニメ 原作1
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こんにちは。アニクロニクル 運営者の朝日 とうまです。

Netflixで配信されたアニメ『リヴァイアサン』、ご覧になりましたか。圧倒的な映像美に息を呑みつつも、見終わった後にどこか胸が締め付けられるような、切ない余韻が残ったのではないでしょうか。私自身、エンドロールを見つめながら「二人の物語はこれで本当によかったのかな」と、しばらく動けなくなってしまいました。

検索エンジンで「リヴァイアサン アニメ 原作 違い」や「結末」について調べているあなたも、きっと同じ気持ちを抱えているのだと思います。原作小説とアニメではストーリーやキャラクターの設定、そして何よりラストの展開に大きな違いがあると言われています。

評価や海外の反応、そして気になるシーズン2の可能性まで、アニメを見ただけでは分からない真実を一緒に紐解いていきましょう。

この記事のポイント

  • アニメ版と原作小説で決定的に異なる結末とアレクの選択
  • ファンの間で賛否両論となったキャラクターの改変ポイント
  • アニメではカットされてしまった日本登場エピソードの全貌
  • アニメ視聴後に原作を読むべき理由とおすすめの楽しみ方
目次

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リヴァイアサンのアニメと原作の決定的な違い

リヴァイアサン アニメ 原作2
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アニメ版『リヴァイアサン』は、スタジオオレンジによる宝石のような映像美が話題ですが、見終わった後に「あれ、何か違う?」という感覚を抱いた方も多いのではないでしょうか。

蒸気を噴き上げるウォーカーの重量感、空を泳ぐリヴァイアサン号の生々しさ。映像体験としては間違いなく「完璧」でした。しかし、物語の肌触りやキャラクターの言動に、少しだけ「違和感」を覚えませんでしたか?

「私の知っているアレクは、こんなに脆かったっけ?」
「物語の着地点、本当にそこであってる?」

その直感は、決して間違いではありません。実は今回のアニメ化プロジェクトは、単に小説をそのままなぞったわけではなく、物語の根幹部分で原作とは異なる「パラレルワールド」とも言える大胆な再構築が行われているのです。

それは単に「尺の都合でシーンをカットした」というレベルの話ではありません。作品が本来持っていたテーマ性や、キャラクターの「魂」の形そのものが変容していると言っても過言ではないでしょう。「なぜあそこで物語が終わったのか」「あのキャラの性格が違う気がする」。

そんなモヤモヤの正体を、原作と比較しながら一つひとつ解き明かしていきましょう。これは、映像化によって生まれた「もう一つのリヴァイアサン」の謎解きです。

ストーリーは原作のどこまで映像化されたか

リヴァイアサン アニメ 原作3
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まず、最も気になる「アニメは原作のどこまでを描いたのか?」という疑問にお答えしましょう。結論から申し上げますと、アニメ全12話で「原作小説全3巻の物語すべて」を完結まで駆け抜けています。

これは、原作ファンにとってはかなり衝撃的なペース配分でした。というのも、スコット・ウエスターフェルドによる原作小説(『クジラと蒸気機関』『クラーケンと潜水艦』『ロリスと電磁兵器』)は、文庫本にして計3冊、総ページ数は約1,200ページにも及ぶ重厚な長編冒険譚だからです。

通常、これほどの分量のアニメ化であれば2クール(24話程度)かけてじっくり描くのが定石ですが、本作では約300分(25分×12話)という限られた尺の中にすべてを凝縮しています。その結果、以下のような驚異的なハイスピード構成となりました。

原作の巻数(タイトル)アニメの対応話数(目安)消化ペース
第1巻
Leviathan
(クジラと蒸気機関)
第1話 ~ 第4話約100分で
文庫1冊分
第2巻
Behemoth
(クラーケンと潜水艦)
第5話 ~ 第8話約100分で
文庫1冊分
第3巻
Goliath
(ロリスと電磁兵器)
第9話 ~ 第12話約100分で
文庫1冊分

この表を見ていただければ分かる通り、「文庫本1冊をたった4話で消化する」という、かなりタイトな脚本になっています。

この構成により、アニメ版は息つく暇もないジェットコースターのようなエンターテインメントに仕上がりました。アクションシーンの密度は高く、中だるみは一切ありません。しかし、その代償として「余白」が失われてしまったのも事実です。

原作にはふんだんにあった、飛行船での移動中の何気ない会話、食事のシーン、アレクとデリンが少しずつ信頼関係を築いていくための「時間」……そういった、物語の情緒を深めるエピソードの多くがカット、あるいは大幅に短縮されました。

アニメを見ていて「二人の距離が縮まるのが早いな」「いつの間にそんなに仲良くなった?」と感じた場面があったとしたら、それは決して気のせいではありません。本来あったはずの積み重ねの時間が、尺の都合で「早送り」されてしまった結果なのです。

アニメ版独自のアレクとデリンのキャラクター改変

リヴァイアサン アニメ 原作4
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物語の心臓部である主人公二人、アレクとデリン(ディラン)。アニメ版では、この二人のキャラクター造形、そして互いの関係性のバランスに対して、かなり大胆な独自の解釈が加えられています。原作を読み込んでいるファンほど、この変化には驚かされたことでしょう。

原作では「ハイスペック王子」だったアレク

最も大きな議論を呼んでいるのが、アレクサンダー公子の能力と性格の変更です。

原作小説におけるアレクは、確かに世間知らずで傲慢な一面もありますが、それ以上に「王族としての英才教育」を受けた超優秀な少年として描かれています。彼はドイツ語や英語を含む多言語を流暢に操り、複雑な軍事戦略を理解し、何よりクランカー(機械)への深い知識と愛着を持っています。

自らウォーカー(歩行戦車)の操縦桿を握り、メカニック顔負けの技術で機体を修理し、敵の兵器構造を瞬時に分析する――そんな「頼れるリーダー」としての資質が、原作のアレクにはありました。

しかし、アニメ版のアレクは、物語の悲劇性や「高貴な血筋ゆえの孤独」を強調するためか、能力面での活躍シーンが大幅に削られています。その結果、感情的になりやすく、判断に迷いが生じる「守られるべき存在(ヒロイン的ポジション)」としての側面が強くなりました。

村瀬歩さんの演技は、高貴さと表裏一体の脆さを見事に表現しており、胸を打つものがありましたが、原作を知る読者からは「もっと知性的でカッコいいアレクが見たかった」「ただのわがままな子供に見えてしまうのが辛い」といった複雑な声も上がっています。

アクションスター化したデリン(ディラン)

一方で、藤原夏海さんが演じるデリンは、アニメ版においてその輝きを増しています。

原作でも彼女は勇敢ですが、アニメ版では身体能力と戦闘能力がさらに強化され、事実上の「単独主人公」と言えるほどの活躍を見せます。アレクが迷う場面で道を切り開き、物理的にも精神的にも彼を支え続ける姿は、まさにヒーローそのもの。アニメのアクションシーンの多くは彼女の見せ場となっており、視聴者の爽快感を一身に背負っていました。

バディとしてのバランスの変化

  • 原作: 「機械知識のアレク」×「生物直感のデリン」。
    得意分野が異なり、互いに補い合う対等なパートナーシップ。

  • アニメ: 「迷えるアレク」×「導くデリン」。
    デリンがアレクを守り導くという、一方向のベクトルが強い関係性。

アニメ版では、アレクの能力がデバフ(弱体化)された分、相対的にデリンの万能感が際立つ形となりました。二人の関係性が「対等な相棒」から「守る者と守られる者」へとシフトしたことは、後の結末の分岐にも大きく影響していると言えるでしょう。

原作ファンが驚いたホフマン死亡と展開の違い

リヴァイアサン アニメ 原作5
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※注意:ここからは物語の中盤に関わる重要なネタバレを含みます。

アニメ版を視聴していて、最も心臓が凍りついた瞬間。それは間違いなく、アレクの忠実な従者であり、機械整備の師でもあったホフマンが命を落とすシーンではないでしょうか。

「まさか主要キャラがあっさり死ぬなんて……」とショックを受けた方も多いと思いますが、その衝撃は原作を熟読していたファンにとっても同じ、いえ、それ以上のものでした。なぜなら、原作小説においてホフマンは、最後まで五体満足で生き残るキャラクターだからです。

なぜアニメ版は彼を殺さなければならなかったのか

このあまりに辛い改変には、アニメ版制作チームの明確な意図が見え隠れします。それは、この物語を「少年少女のワクワクする冒険活劇(ジュブナイル)」から、「死と隣り合わせの戦争ドラマ」へとシフトさせるという決断です。

原作の『リヴァイアサン』は、第一次世界大戦を舞台にしつつも、基本的には明るく前向きなトーンが貫かれています。しかしアニメ版は、戦争の悲惨さ、理不尽さ、そして「喪失」をアレクに叩き込むためのトリガーとして、最も身近で親しみやすいホフマンという犠牲を選んだのでしょう。

彼の死によって、アレクの旅は「冒険」から「逃避行」、そして「復讐と責務の戦い」へと、その色調を一気に暗く重いものへと変化させました。物語のリアリティを高めるための、非常に残酷で効果的な演出だったと言えます。

原作にある「生存ルート」の温かさ

だからこそ、アニメを見て心が折れそうになった方に伝えたいのです。原作小説の中には、ホフマンが元気に整備油にまみれながら、アレクを支え続ける世界線が存在しています。

原作のホフマンは、厳格すぎるヴォルガー伯爵と未熟なアレクの間を取り持つ、重要な緩衝材(ムードメーカー)としての役割を担っています。彼の軽口や、アレクに対する兄のような温かい眼差しは、殺伐とした戦時下の描写における救いそのものです。

「もしホフマンが生きていたら、あのアニメの結末も変わっていたかもしれない」。
そう思わずにはいられません。彼が生きてアレクの背中を押し続ける「正史」の物語を、ぜひ小説で確かめてみてください。そこには、失われたはずの笑顔が確かに残っています。

結末の分岐点となるアレクの最終的な選択

リヴァイアサン アニメ 原作6
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この記事を読んでいるあなたが最も知りたいこと、そして私が最も熱く語りたいことがここにあります。アニメ版と原作小説、この二つの作品を決定的に分けているもの。それは、物語の着地点である「結末」が180度異なるという事実です。

少し大げさに聞こえるかもしれませんが、これは単なるエンディング演出の違いではありません。主人公アレクサンダーという人間の「生き様の選択」が、真逆の結果になっているのです。

アニメ版:責務を選んだ「別離の英雄」

まず、アニメ版の結末を思い出してみましょう。
最終話、アレクはデリンとキスを交わし、互いの想いを確認し合いました。しかし、彼はその手を離し、オーストリアへ戻る決断を下します。

「私は皇帝にならなければならない」

彼は自らの個人の幸福(デリンとの愛)を犠牲にし、荒廃した祖国を再建するために指導者としての茨の道を選びました。これは「ノブレス・オブリージュ(高貴なる者の義務)」を全うする、非常に美しく、そして切ないビタースイートエンドです。世界のために自分を殺した、大人の結末と言えるでしょう。

原作版:愛を選んだ「自由なる市民」

対して、原作小説の結末は痛快なほどに異なります。
原作のアレクは、物語のクライマックスで手に入れた「教皇からの王位継承承認書」を、自らの意思で破り捨てるのです。

「皇帝になる道」を、彼は完全に放棄します。

ここで彼が引用する言葉こそ、ハプスブルク家の有名な格言です。

「他国には戦争をさせておけ、汝、幸いなるオーストリアよ、結婚せよ」

彼はこの言葉を皮肉たっぷりに、しかし誇らしげに引用し、権力闘争よりも「デリンと共に生きる人生」を選択します。王子としての地位も、国も捨て、一人の人間として愛する少女の手を取るのです。

原作のその後:二人のハッピーエンド

王位を捨てたアレクはその後どうなったのか? 原作では、デリンと共にロンドン動物学会で働く未来が描かれています。二人は公私とものパートナーとして、身分差も国境も超えて結ばれるのです。

アニメを見て「どうして二人は一緒にいられないの?」と涙した方へ。その答えと救いは、原作小説のラストページに用意されています。そこにあるのは、何の憂いもなく二人が肩を並べて歩いていく、直球のハッピーエンドです。

ラストシーンが示唆するメッセージ性の変化

リヴァイアサン アニメ 原作7
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物語の結末(エンディング)とは、その作品が最終的に何を伝えたかったのかという「メッセージの総決算」です。アレクの選択が正反対になったことで、アニメ版と原作小説は、全く異なるテーマを持つ作品として完結しました。

それぞれのラストシーンが私たちに語りかけてくるメッセージの違いを、少し深く掘り下げてみましょう。

原作小説:YA文学としての「解放と自立」

原作者スコット・ウエスターフェルドが描いた結末は、ヤングアダルト(YA)小説の王道とも言える「宿命からの解放」です。

アレクにとっての「王位」や「血筋」は、生まれた時から彼を縛り付けてきた呪いのようなものでした。原作のラストで彼が王位を捨てる行為は、単なる恋愛の成就以上に、「親や家系が決めたレールから降り、自分自身の足で人生を歩み始める」という、究極の自立宣言を意味しています。

「遺伝子(運命)は変えられないが、生き方は選べる」。
バイオパンクという遺伝子を扱う作品において、主人公が血の宿命を乗り越えるこの結末は、読者に未来への希望と爽快感を与えてくれます。

アニメ版:現代的リアリズムとしての「責任と献身」

一方で、アニメ版が提示したのは、より厳しく、より現代的な「平和のための自己犠牲」というテーマです。

アニメのアレクは、個人の自由よりも「多くの人々を救うための指導者」としての責務を選びました。これは、「自分の幸せを投げ打ってでも、世界のために役割を全うする」という、極めて大人びた、ある種の聖人のような生き方です。

第一次世界大戦という未曾有の悲劇を前にして、「個人の愛に逃避することは許されない」というリアリズムがそこにはあります。この改変により、アニメ版は少年少女の冒険譚から、重厚な戦争大河ドラマへとその性質を変貌させました。

あなたはどちらのメッセージに救われますか?

  • 原作派: 「どんなに重い運命も、捨ててしまっていい。君の人生は君のものだ」と言ってほしい人。
  • アニメ派: 「辛くても逃げずに立ち向かう姿こそが尊い。その犠牲は無駄ではない」と感じたい人。

アニメ版のビタースイートな結末も、戦争を終わらせるための決断として非常に説得力があり、映像作品として一つの完成された美学を感じさせます。ただ、もしあなたが、あのアニメを見て「どうして二人は幸せになれないの?」と胸を痛め、救いを求めているのだとしたら。

原作小説には、あなたが求めていた「許し」と「自由」が待っています。どちらの結末が正しいかではなく、今のあなたの心がどちらを必要としているか。それが、原作へ進むべきかどうかの答えになるはずです。

海外評価で見るアニメ版の賛否両論ポイント

ヴァイアサン アニメ 原作 8
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『リヴァイアサン』は元々海外のYA(ヤングアダルト)小説として絶大な人気を誇るため、今回のアニメ化に対する海外の反応も熱いものがありました。

Redditなどのコミュニティやレビューサイトを見ると、評価は真っ二つに分かれています。
肯定的な意見としては、「スタジオオレンジのCGI技術は芸術の域」「久石譲氏の音楽が壮大で泣ける」「戦争の重みが伝わる」といった映像・演出面への絶賛が圧倒的です。

一方で批判的な意見としては、「アレクの成長の方向性が違う」「私の好きなハッピーエンドが奪われた」「詰め込みすぎてキャラクターの心理描写が浅くなった」といった、脚本構成や原作改変に対する嘆きが見られます。どちらの意見も作品への愛ゆえのものであり、それだけ注目度の高い映像化だったと言えるでしょう。

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リヴァイアサンのアニメから原作へ進む魅力

リヴァイアサン アニメ 原作 9
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ここまで「違い」について少し厳しいこともお話ししてきましたが、誤解しないでいただきたいのは、私はアニメ版『リヴァイアサン』を否定しているわけではない、ということです。むしろ、心から感謝しています。なぜなら、あのアニメがあったからこそ、私たちはこの圧倒的にユニークで美しい世界観に出会うことができたのですから。

アニメを見終わった今、あなたの頭の中には、久石譲氏の壮大な音楽が鳴り響き、オレンジスタジオが描いたリヴァイアサン号の有機的な動きが鮮明に焼き付いているはずです。実は、これこそが原作を読む上での「最強の武器」になります。

小説のページをめくるたび、文字情報が脳内で瞬時にあのアニメーション映像へと変換される。キャラクターの声も、エンジンの轟音も、すべてがリアルに再生される。
それは、ゼロから想像して読むのとは全く違う、「解像度120%の読書体験」です。

アニメで心動かされたあなたにこそ、原作小説という「もう一つの旅」、そして「まだ見ぬ真実」へ進む権利があります。あのアニメは、壮大なサーガへの最高に贅沢な「招待状」だったのかもしれません。さあ、映像では語りきれなかった本当の冒険へ、一緒に出発しましょう。

アニメでカットされた世界一周と日本エピソード

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アニメ版を見ていて、舞台が基本的に「ヨーロッパ周辺」に留まっていたことに気づかれましたか? 実は原作小説、特に第3巻『ゴリアテ』における旅のスケールは、アニメの比ではありません。あれは文字通り、地球をぐるりと一周する壮大なワールドツアーなのです。

アニメでは尺の都合でばっさりとカットされてしまいましたが、原作のリヴァイアサン号は、イスタンブールを抜けた後、シベリア、日本、メキシコ、そしてニューヨークへと飛び回ります。この「世界旅行」こそが、冒険小説としての醍醐味なのですが、中でも私たち日本人にとって見逃せないのが日本への寄港エピソードです。

ウエスターフェルドが描く「スチームパンク日本」

原作に登場する日本(第一次世界大戦期の大日本帝国)は、非常にユニークな設定で描かれています。

ヨーロッパでは「機械(クランカー)」と「生物(ダーウィニスト)」が宗教戦争のように対立していますが、日本はそのどちらの陣営にも属していません。それどころか、「使えるものは両方使えばいい」という柔軟な発想で、機械技術と生物工学を独自に融合させたハイブリッドな文明を築いているのです。

ここが面白い!原作日本編の設定

森の神々を敬う精神(生物への親和性)と、近代化を急ぐ産業力(機械への適応)が同居する日本。もしアニメ化されていれば、侍のような精神性を持つクルーや、和洋折衷の奇妙なメカ・生物が登場し、スタジオオレンジの映像美と相まって神回になっていたことは間違いありません。

太平洋を越えるスケール感が失われた惜しさ

シベリアの凍てつく大地で謎の電気実験を目撃したり、太平洋上で繰り広げられる知略戦があったりと、第3巻はロードムービーとしての楽しさが詰まっています。

アニメ版では、これらの「寄り道」をすべて省略し、テスラとの最終決戦へと直行しました。物語のテンポとしては正解だったかもしれませんが、世界大戦が欧州だけでなく、極東やアメリカ大陸をも巻き込んだグローバルな出来事だったという「世界の広がり」を感じにくくなってしまったのは否めません。

「海外のSF作家が描く、不思議でカッコいい日本」を見てみたかった……。そんな悔しさを感じた方は、ぜひ小説版を開いてみてください。そこには、アニメでは描かれなかった、私たちの国の「もう一つの歴史」が広がっています。

バイオパンク設定の深掘りとボブリルの役割

リヴァイアサン アニメ 原作 11
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アニメを見ていて、デリンの肩に乗っているあの小さな生物「ボブリル」に癒やされた方も多いはずです。クリッとした目が愛らしく、アニメ版では計算機(カリキュレーター)のような機能を持つ便利なマスコットとして描かれていました。

しかし、原作小説におけるボブリル(正式名称:パースピカシアス・ロリス)は、単なるマスコットではありません。実は、物語の根幹を揺るがすほどの「とんでもない特殊能力」を持った、極めて重要なキャラクターなのです。

アニメではカットされた「嘘を見抜く」恐怖の能力

原作のボブリルが持つ真の能力。それは、「人間が嘘をついている時にそれを感知し、その発言の『真意』だけをオウム返しにする」というものです。

例えば、誰かが心にもないお世辞を言ったり、隠し事をしたりすると、ボブリルはその独特な声で「ウソ!ウソ!」とは言いませんが、特定の単語を繰り返して相手の動揺を誘ったり、嘘の匂いに反応して騒ぎ立てたりします。つまり、彼は「生きた高性能嘘発見器」なのです。

デリンにとっての最大の脅威

この能力は、主人公デリンにとって致命的です。なぜなら彼女は、「自分は少年である」という巨大な嘘をつき続けているからです。原作では、ボブリルが近くにいるだけで「いつ正体がバレるか分からない」という極限のサスペンスが常に張り詰めています。可愛い顔をした時限爆弾、それが原作のボブリルなのです。

「生きた船」リヴァイアサンの生態系を楽しむ

ボブリルだけでなく、原作小説では「バイオパンク」の設定が驚くほど緻密に描写されています。

アニメでも少し触れられましたが、巨大飛行船リヴァイアサン号は、単なるクジラではありません。水素を作るバクテリア、伝言を運ぶトカゲ、敵を攻撃するコウモリ、そして排泄物を処理する微生物……それら無数の人工生物が共生関係を築いて成り立っている、一つの「閉じた生態系(エコシステム)」なのです。

「この生物はどんな遺伝子を組み合わせて作られたのか?」「船内での役割は何なのか?」
小説版では、こうしたSF設定オタクにはたまらない詳細な解説が随所に散りばめられています。アニメの映像美で直感的に理解した世界を、文字で論理的に理解し直す快感。これもまた、原作へ進む大きな醍醐味の一つと言えるでしょう。

続編となるシーズン2の可能性と原作のストック

リヴァイアサン アニメ 原作 12
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全12話を見終えた直後、画面の前で「えっ、ここで終わり!? シーズン2はいつ!?」と叫んでしまったのは、私だけではないはずです。物語としては一区切りつきましたが、彼らの人生はまだ続いていく……そんな予感をさせるラストでしたから、期待してしまうのも無理はありません。

では、冷静に「シーズン2(続編)」が制作される可能性はあるのでしょうか? アニクロニクル編集部としての見解は、残念ながら「かなり可能性は低い、あるいは難しい」と言わざるを得ません。

最大の壁は「原作ストックの枯渇」

続編が難しいと考える最大の理由は、単純明快です。今回のアニメ化で、原作小説のストーリーをすべて使い切ってしまったからです。

先ほど解説した通り、アニメ全12話は原作小説の第1巻から第3巻(完結巻)までを駆け足で網羅しています。つまり、アニメの続きを描こうにも、ベースとなる原作が存在しないのです。人気漫画のアニメ化などでよくある「原作に追いついてしまったから待つ」という状況ですらなく、「原作がもうない」という状態なんですね。

ラストの「南極行き」は続編への布石?

最終話のラストシーンで、デリンがバーロウ博士と共に南極調査へ向かうような描写がありました。「これは続編への伏線では?」と期待したくなりますが、これはおそらく原作へのリスペクトを含めたアニメオリジナルのエピローグだと解釈すべきでしょう。

原作の旅が終わった後、彼らが選んだ「それぞれの未来」を映像として提示したものであり、具体的な「シーズン2の予告」である可能性は低いと考えられます。

もし制作されるなら「完全オリジナル」の道

もちろん、Netflixオリジナルアニメとして世界的な大ヒットを記録すれば、原作の枠を超えたプロジェクトが動き出す可能性はゼロではありません。

もし仮にシーズン2が作られるとしたら、それはウエスターフェルド氏の手を離れた「アニメ完全オリジナルストーリー」になるでしょう。

  • 指導者として苦悩するアレクのオーストリア統治編
  • デリンが未知の土地で新種生物を発見する冒険編
  • そして数年後、大人になった二人が再会するドラマチックな展開……

想像するだけでワクワクしてしまいますが、これはあくまで「もしも」の話。現状、公式からの発表は一切ありません。

だからこそ、私は声を大にして言いたいのです。「続きが見たい!」というその熱い情熱のやり場として、原作小説を読むことを強くおすすめします。アニメの続き(シーズン2)は存在しなくても、アニメでは描かれなかった「空白の時間」や「別の運命」は、すでに本の中にたっぷりと用意されているのですから。

生体兵器と機械技術が織りなす対立構造の真意

リヴァイアサン アニメ 原作 13
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『リヴァイアサン』という作品を唯一無二の傑作にしている最大の要素。それは、第一次世界大戦という史実をベースにしながら、戦争の構図を「遺伝子工学(ダーウィニスト)」対「機械工学(クランカー)」という、全く異なるテクノロジー体系の対立に置き換えた点にあります。

アニメ版の圧倒的なビジュアルのおかげで、生き物でできた飛行船や、鋼鉄の歩行戦車のカッコよさは十分に伝わったと思います。しかし、この二つの勢力の対立は、単なる「使用する武器の違い」だけに留まりません。原作小説を読むと、それがもっと根深い、宗教観や倫理観の衝突であることが痛いほど伝わってくるのです。

「気持ち悪い」から始まる相互不干渉

原作の冒頭では、両者の断絶は決定的です。

  • クランカー(ドイツ・オーストリア側):
    規律と鉄を重んじる彼らにとって、生物を改造して兵器にすることは「神への冒涜」であり、不潔で野蛮な行為として忌み嫌っています。

  • ダーウィニスト(イギリス側):
    自然の適応力を信じる彼らにとって、黒い煙を吐き出し、油にまみれた機械は「魂のないガラクタ」であり、自然界への反逆として見下しています。

アレクとデリンが出会った当初も、互いの文化に対する嫌悪感(生理的な拒絶反応)は相当なものでした。アレクはリヴァイアサン号の中を歩くことさえ「バケモノの腹の中だ」と恐れ、デリンはウォーカーの騒音を毛嫌いしていました。

アニメでは描ききれなかった「融和」のプロセス

アニメ版ではどうしても尺の都合上、ドンパチ(戦闘アクション)がメインになりがちでしたが、原作小説の真骨頂は、この「絶対に分かり合えないはずの二人が、互いの技術(文化)を理解していくプロセス」にあります。

アレクは次第に、リヴァイアサン号が持つ「生命の温かさ」や、乗組員たちが生物と心を通わせる絆に触れ、偏見を捨てていきます。
デリンもまた、アレクが操る機械の「精緻な美しさ」や、操縦者の意志に応える頼もしさを認め、機械への敬意を抱くようになります。

現代社会へのメッセージ

「自分たちが正しいと信じるものが、相手にとっては忌避すべきものかもしれない」。
この作品が描く対立と和解の図式は、現実世界における宗教対立や異文化摩擦に対する強烈なメタファーでもあります。

二人が互いの文化を否定するのではなく、「すごいものはすごい」と認め合い、最終的には両方の技術を融合させて困難を乗り越えていく姿。それは、現代の私たちが直面している「多様性」や「異文化理解」という課題への、一つの美しい回答のように思えてなりません。アクションの裏側に隠されたこの深い哲学的テーマを、ぜひ原作のテキストから読み取ってみてください。

リヴァイアサンのアニメと原作を楽しむ推奨ルート

リヴァイアサン アニメ 原作 14
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最後に、私が考える『リヴァイアサン』を骨の髄まで楽しむための推奨ルートをお伝えします。

おすすめの楽しみ方ステップ

  1. まずはアニメ版を完走する:
    圧倒的な映像と音楽で、世界観の基礎をインストールします。ここでの「切なさ」を大切にしてください。

  2. 原作小説(特に3巻)を読む:
    アニメでカットされた世界旅行を楽しみ、そして何より、アニメとは異なる「二人が結ばれるハッピーエンド」を体験してください。

  3. サントラを聴きながら再読する:
    久石譲氏らの音楽をBGMに小説を読むことで、脳内で「完全版リヴァイアサン」が完成します。

アニメ版の結末が決して「間違い」だったわけではありません。でも、もしあなたが、あのアニメのラストで心にポッカリと穴が空いてしまったのなら。その穴を埋めるピースは、間違いなく原作小説の中にあります。

映像で心を揺さぶられ、文字で心を救われる。
そんな贅沢な体験を、ぜひ味わってみてください。

総括:リヴァイアサン アニメ 原作の違いを知れば二度泣ける

リヴァイアサン アニメ 原作 15
リヴァイアサン アニメ 原作

今回は「リヴァイアサン アニメ 原作」をテーマに、ストーリーやキャラクター、そして結末の大きな違いについて解説してきました。アニメ版は「責務と別離」を描き、原作版は「自由と愛」を描きました。

どちらの結末もそれぞれの美しさがありますが、両方を知ることで、この作品世界の奥行きがぐっと広がります。まだ原作を読んでいない方は、ぜひアレクとデリンのもう一つの運命を見届けてあげてください。

※本記事の情報は2025年時点のものです。配信状況や書籍の購入に関しては、各公式サイトや書店にて最新情報をご確認ください。

ライターコラム

正直に言うと、この記事を書きながら、何度かあのアニメのラストシーンがフラッシュバックして、胸が少し痛みました。

「立派な王子様にならなくていい。ただの少年として、君の手を離さないでほしかった」

これが、画面の前で私が噛み殺した本音です。 アニメ版のアレクの決断は、あまりに美しく、そしてあまりに残酷でした。あそこで「さよなら」を選べる強さが、私には眩しすぎて、少しだけ悔しかった。

だからこそ、私は声を大にして言いたいんです。 原作にあるハッピーエンドは、単なる「設定の違い」なんかじゃない。 あれは、アニメを見て置き去りにされた私たちが、どうしても辿り着きたかった“救済”そのものです。

もし、あなたがまだあのラストの余韻で動けずにいるなら。 どうか、本を開いてください。 そこには、私たちが信じたかった「二人が笑い合う未来」が、ちゃんと待っていますから。

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